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(葵紋)康繼於越前作之(越前三代)

【中文】

(葵紋)康繼於越前作之(越前三代) 日本刀新刀期的有名刀匠。初代康繼精於美濃及山城傳, 於慶長5年(1600)關原之戰后移居至越前。 於翌年得到新的越前領主結城秀康的賞識並引薦至德川家。康繼受到德川家的重用,並在慶長10年(1605)4月16日后被授權在其作刀的刀莖上刻上德川家的“葵之御紋”。 在豐臣家滅亡的大阪城陷落之中,於城内收藏的眾多名刀因火災而受到損害。戰後康繼負責其修復的工作(再刃)。其中他所修復的名刀包括「一期一振」、「鯰尾籐四郎」、「若江(十河)正宗」、「上下龍正宗」、「大阪長銘正宗」等。其傳人二代(初代嫡子)與三代(初代三子)康繼亦為出色的刀工。他們除鍛刀外也參與刀劍修復的工作,其中三代康繼亦為明歷大火(1657)中損壞的「骨喰籐四郎」進行修復。

【日本語】

(葵紋)康繼於越前作之(越前三代)康継は、日本刀新刀期の有名な刀匠です。初代康継は美濃伝と山城伝に精通しており、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、越前に移住しました。翌年には、新たに越前領主となった結城秀康から賞賛され、徳川家に推薦されました。徳川家に重用された康継は、慶長10年(1605年)4月16日以降、作刀の刀茎に徳川家の「葵の御紋」を刻むことが許されました。豊臣家が滅亡した大阪城落城の際には、城内に所蔵されていた多くの名刀が火災によって損傷を受けました。戦後、康継はこれらの修復(再刃)を任され、その中には「一期一振」、「鯰尾藤四郎」、「若江(十河)正宗」、「上下龍正宗」、「大阪長銘正宗」などの名刀が含まれています。康継の後継者である二代目(初代の嫡子)および三代目(初代の三男)も優れた刀匠であり、刀の鍛造だけでなく、刀剣の修復にも携わりました。三代目康継は、明暦の大火(1657年)で損傷を受けた「骨喰藤四郎」の修復も行いました。

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