月山貞一 作
【中文】
帝室技芸員 御守護劍
明治9年(1876)年日本頒佈了廢刀令,日本刀的需求下降,刀匠被迫放棄日本刀的鍛造。日本刀的鍛造面臨失傳。明治時代,為保存日本各種傳統工藝與藝術,宮内廳於1890年成立保育制度,授予各領域出色藝術家帝室技芸員的稱號。至1947年(轉為人間國寶制度)前,共有79位日本的工藝家獲得其稱號,其中兩位為日本刀的刀匠,而月山貞一則為其中之一。 月山派被認為與日本山岳信仰 - 修驗道關係密切,其作品所展現的綾杉肌亦被認爲與出羽三山有關。 月山貞一於1836年出生於近江國(現滋賀縣),原名月山彌五郎,其養父月山貞吉是被譽為新刀鼻祖的水心子正秀之門徒。月山貞一的雕刻(月山雕)與刻字尤爲出色,並於1906年被授予帝室技芸員的稱號,曾為明治天皇及日本皇族鍛刀,為日本皇室御用刀工。 月山貞一的兒子(月山貞勝)與孫兒(月山貞一 二代)均為出色刀工,皆獲得人間國寶的稱號。其門派一直繁榮至今。
【日本語】
帝室技芸員 御守護剣
明治9年(1876年)に日本は廃刀令を公布し、日本刀の需要が減少しました。その結果、多くの刀匠は日本刀の鍛造を放棄せざるを得ず、日本刀の鍛造技術は失われる危機に直面しました。明治時代、宮内庁は日本の伝統工芸や芸術を保存するため、1890年に保護制度を設立し、各分野の優れた芸術家に帝室技芸員の称号を授与しました。1947年にこの制度が人間国宝制度に移行するまでに、79名の日本工芸家がその称号を受け、そのうちの二名が日本刀の刀匠であり、月山貞一はその一人です。 月山派は日本の山岳信仰である修験道と密接な関係があるとされており、その作品に見られる綾杉肌は出羽三山とも関連があると考えられています。 月山貞一は1836年に近江国(現在の滋賀県)に生まれ、もとの名は月山弥五郎です。彼の養父である月山貞吉は、新刀の祖とされる水心子正秀の門弟でした。月山貞一は、特に彫刻(月山彫)と刻字に優れ、1906年には帝室技芸員の称号を授与されました。彼は明治天皇や日本皇族のために刀を鍛え、日本皇室の御用刀工としても活躍しました。 月山貞一の息子(月山貞勝)と孫(月山貞一 二代)も優れた刀工であり、共に人間国宝の称号を受けています。その門派は現在まで繁栄し続けています。