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武州住石堂秦守久

【中文】

江戶時代前期 脇差

原名石堂八左衛文尉守久。出生於尾張國(現愛知縣西),師事武州的光平並學習石堂的鍛刀流派。石堂派分為石堂是一與對馬守常光兩個流派,均居於江戶,以備前傳為主。據傳該流派為福岡一文字助宗的後裔。石堂派乃因居於近江國蒲生郡石塔村的石塔寺而得其名。 守久於慶安與承應(1648-1655)年間所使用的銘為“武州豊島郡江戸庄石堂秦守久”及“武州住石堂秦守久”。於延宝四年(1676)後則改用“武州住石堂秦東蓮”。

【日本語】

江戸時代前期 脇差

石堂八左衛門尉守久は、尾張国(現在の愛知県西部)で生まれ、武州の光平に師事し、石堂の鍛刀流派を学びました。石堂派は石堂是一と対馬守常光の二つの流派に分かれ、どちらも江戸に拠点を置き、主に備前伝を基盤としています。この流派は、福岡一文字助宗の後裔と伝えられています。石堂派の名は、近江国蒲生郡石塔村の石塔寺に由来します。 守久は、慶安および承応(1648-1655年)の間に「武州豊島郡江戸庄石堂秦守久」や「武州住石堂秦守久」という銘を使用し、延宝四年(1676年)以降は「武州住石堂秦東蓮」という銘に改めました。

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